2025.10.07 教育委員会議の傍聴に行きました

傍聴(ぼうちょう)という言葉は堅苦しくて嫌なのですが、条例や規則できっちりと定められた機関で、ルールが決められているということでもあります。
先日、鈴木大裕さんの話も聞いたところですし、これから三宅町学校をどうすんねん?という話もあるので、たまたま時間が空いたので、聞きに行ってきました。
その日の傍聴にはもう一人、熱心な議員さんが来られていました。

三宅町教育委員会
https://www.town.miyake.lg.jp/site/kyouiku/

感想。
教育委員さん(教育長を含めて5人)の年齢層が若くて、意見や議論が活発で、すごくいいです。
これからの未来を考えるには、こういう雰囲気での議論が必要かと感じました。頼もしいとも思いました。
こういう場で、三宅町の教育が話し合われていることは、住民さんに広く知って欲しいです。

「いやいや、ワシはもう学校を卒業して、ずいぶん経つし、子や孫も大きくなった。教育とか学校なんか関係ないわい」
と思ったそこのあなた! ☛
もったいない。
考えてもみてください。
同じ時間、同じ場所に、しかもほぼ毎日、地域の住民(子供たち)が集まっているのです。
町内で最大の公共の場です。
過疎化(地域の縮小)が進めば進むほど、最後の公共の場ともなります。

その学校で、地域の人と交わり、子どもたちが、地域のこと(空き家・福祉・観光・歴史など)を知る・関わること。
それは、“将来の担い手”として成長する時の可能性が広がりますし、地域の実情に合ったもの(単なる知識以上のもの)になると思われます。
また、自分のことを知ってくれている大人が、親や親せき以外にたくさんいる、って、素敵なことではないでしょうか?
(小学生時代の私・森内少年は、窮屈だと感じたかもしれないと、思い起こし、想像しつつ、今の自分から当時の自分に言いたい「それはモノスゴク有り難い(文字通り;有り難い「そんな状態があることが難しい」=奇跡的)だと」

「地域で子を育てる」ことが「地域を育てる」ことになります。
「教える」というと、我々は、先生が教室の前にいて生徒が整列して…というイメージを思い浮かべます。
しかし、そういったイメージすら古い。生徒たちが、それぞれ好きに自分の興味のあることを自分のペースでやり、遊びみたいに楽しくて、どんどんやっていると知識や経験が身につく。そんな学びが、今の学びで、実は本来の学びかもしれません。
そんな本来の学びというところも視野に入っています。

今、この教育委員会で話し合われていることは、「どうやって地域の人に学校に来てもらおうか?」とか、「つめ込みの知識で
ない学びって、どんなのだろう」とはいえ、「最低限の知識ってあるよね、小さいうちから学んでもらうには、どうするのがいいんだろう…」こんなことでした。

我々、ガンコジジイ・ババアの経験値も必要だと思いますが、時代は変わっていきます。
その経験値は未来永劫不滅のモノか?と振り返りつつも、その経験値を未来に生かすことが、経験値を積むことの意義です。
頑固ジジイ
(我々って誰のことやねん?という問いはやめてぇ)

また、聴きに行きたいと感じる教育委員会の会議でした。

追記;
資料1、資料2と、次第(もらったペーパー)には書いてあったのですが、それは傍聴人は見ることが出来ず、なんの話やろ?というのがありました。
傍聴人用の資料というのは、実は議会や委員会でも同じで、用意しても傍聴に来られないと、紙の無駄遣いとなってしまうので、どうするよ?という話があります。
今回は、鈴木大裕さんの講義を受けて、教育委員会は傍聴できると知り、急に教育委員会を傍聴したいとなったため、教育委員会の方でも準備が出来ていなかったということもあると思います。

コメントを残す