〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か
著者:朱喜哲(ちゅ ひちょる)
P42-43
ロールズ自身は、「社会」を次のようにとらえています。
社会とは、おたがいにとって利益があるように、みなでとりくむ命がけの挑戦である。そこでは利害・関心の一致ばかりでなく、その対立や衝突が起こるのがつねとなる。(それでも)各人が自分だけの力でひとり生きることと比較して、社会においてみなでともに取り組むことによって、すべての人にとってより良い暮らしが可能になるからこそ、利害・関心の一致が成立するのだ。
ここで「皆で取り組む命がけの挑戦」と訳した原語は、「a cooperative venture」です。
つまり、社会とはみなで営むものであるが、それはまったく安定していない、一触即発の危険に満ちたものなのだということです。
ロールズは社会の構成員のニーズがおのおの違っている。-すなわち多様である-ということをポジティブにとらえ、その点をこそ重視しています。これはロールズが登場する以前、「最大多数の最大幸福」という有名なスローガンで知られる功利主義という哲学上の立場が、各自のニーズの多様性を軽視していたことへの反省と批判に根差しています。
功利主義への批判をふまえてロールズが構想したいのは、それほどマイナーなものであっても個々人が自らのニーズを追求する権利が適切に確保される社会です。
こうした多様性を尊重する社会は、同時にある種の不安定さを抱え込まざるをえません。
P46
それは常に危機にさらされており、時には破綻を生じます。現状はかろうじてまわっているにすぎません。
しかし、かろうじてとはいえ回っているからこど、私たちはなんらかの「正義」の構成について合意をすることができるはずであり、よりよい共生は可能なのだ―こうした冷めた現状認識と理想への情熱が共存する点こそが、ロールズの言葉つかいを魅力的なモノにしているのだと思います。
P69
会話の止め方―――三つのタイプ
「正しい言葉」が難しいのは、こうした語彙を下手に使うと容易に「会話を止める」という事故につながるからです。
具体的には、お互いが「正義」をふりかざしはじめると、もはや実力行使に訴えるしかない、というやつです。
ローティー「人類の会話を続けることが必要」⇒「会話は継続されること (中断されないこと)が大事だ」という考えが示される。
「会話を続けることで、みんなで、これからどうしていくのか考えてゆくことが大事」
個々人の善構想でしかない以上、当然ながら相互に対立することがありえます。しかし、問題は「正義」の所在が道徳として、人々の内面に位置付けられることです。正義を奉じているかは、ひとえに内心の領域にかかっているということです。
「正義」のように強い言葉を私的にふりかざす人に対して、――完全に同調する以外の有意義な仕方で――会話が打ち切られない可能性を担保するには、何らかの異議申し立てができる必要があります。
「相対主義」タイプの事故リスクを避けるため、会話の打ち手は「あなたの振る舞いは、あなた自身が奉じていると主張しているところの正義に反しているのではないですか?」という形をとるのが有効でしょう。
(⇒ 相対的「いろんな考えがあっても良い」というのだから、あなたと違う意見を述べてもいいのではないですか? というような反論か?? それは貴方の感想ですよね。私も感想を述べても良いですね)
この反論に対し、(会話を止める側は)
「君は、私の正義を誤解しているよ」というものか「いや、私は間違えていないよ。君にはわからないだろうけど・・・」という路線です。
前者のルートは、いわば「解釈決定不能性」タイプの事故です。この場合には、異議申し立て側がもう少し食い下がってその内容を話すように求め、それをすり合わせれば多少なりとも会話は続けられそうです。
もっとも、どこかで「結局、私の言いたいことは君にはわからないんだね」と後者のルートに合流することが残されています。
問題は、この後者のルートです。これを「一人称特権による訂正不可能性」タイプの事故ということが言えます。
ある主張の理由や根拠が、個人の内面やその話者の固有な体験などである場合は、その根拠事態は原理的には、なんびとも否定できません。
ただし、このタイプの事故を引き起こしうる「一人称特権による訂正不可能性」とは、マジョリティーが占める会話空間での「声」が認められていないマイノリティーにとって、重要かつ唯一の武器でもあるということを忘れてはなりません。
会話の止め方の三つのタイプとは、「相対主義」「解釈の決定不能性」「一人称特権による訂正不可能性」
—-
P94
こどもの世界観。自分(たち)こそ社会の中心であるという世界観
いわば「ふつう」である自分(たち)の周りを中心とした、同心円状に広がる空間がイメージされています。
真ん中に位置する「わたし」の目の届く範囲には、「ふつう」の人たちがたくさんおり、そのサークルの外側のほうに小さく、あるいは見えないところに「ふつうじゃない」人たちがいるらしいという世界観です。
しかし、大人の世界観は、世界には多様な人たちが存在しているという厳然たる事実を学び、誰もがちょうど一人分の権利を有しており、自分もまた一市民なのだという感覚をもつことは、大人であることの一つの条件です。(これは言うほど簡単なことではないのですが、しかし少なくとも「おおっぴらには」そう言うべき、というバランス感覚を身につけるところまでは、大人としては必要なことでしょう)
—-
社会的な「力」の勾配
—
P115
「会話の止め方」の一つが「正義の」相対主義的な用法でした。
「正義は人それぞれだからね」「こういう話はどこまでいっても絶対に相いれないよね」というような安直な相対主義(「どっちもどっちなので、それ以上話すことはない」)を招くものです。
⇒ 対策:「それぞれに何がいいと思うかで対立することは当然あるけど「正義」って言葉はそれをは別にとっておこうよ」と返せばよい。
⇒ 対策:「それぞれに何がいいと思うかで対立することは当然あるけど、目的は「○○することでしょ」ここでは、それぞれの違う考えは、そのままで、○○しませんか」と返してみたい
P125
「それぞれに正義がある」とか、「正義の反対は悪ではなく、別の正義」と言った安っぽい相対主義を標榜する紋切り型の言葉使いはやめておこう。
たんに「何を良いと思うのか」つまり、善についての考え方(善構想)」と言えばよい、というのが最重要ポイントでした。
「なにをいいと思うかは、それぞれに違う」とか「おのおのがいいと思うことは、土岐には対立するよね」といった、とても穏当で、むしろ会話の出発点になるような言葉使いになります。
それによって「正義」という言葉は、この出発点からはじめ、時には対立しうるそれぞれの利害を調整し、バランスを取りながら、それでも一緒に社会を営み続けるための政治的な理念の言葉として使うことが出来るようになるのでした。
P140 積極的無関心、「無関心」としての「寛容」
「寛容」とは、思いやりや配慮などではなく、自分自身の利害関心に適度にブレーキをかけ、他者の利害関心の追求に首をつっこんで、それを自分ゴト化しないように心がけることです。さらにいえば、これは自身の利害関心に基づいた想像力をはばたかせてしまい、あらゆるものを敵か味方かに二分してしまうような習慣を見直すことです。
誰かの利害関心の追求について、みずからの利害関心をもつ――自分ゴト化する――とは、ポジティブな面に目を向ければ、仲間を探すことであり、また仲間内で折り合える地点を模索することです。
しかしそれは同時に、誰かの基本的な価値観や習慣に立ち入り、それを自身の利害という観点から評価することでもあります。また結果として「仲間でない人」を作ることになるのでした。
重要なのは、公正な社会を構想するということは、「気の合う仲間」をつくってその輪を人げることとは根本的に異なる、ということです。公正な社会を構想することは、むしろ「仲間でも敵でもない人」たち同士が、どうやってともに生きていけるのかを考えることでしょう。だからこそ、わたしたちがどうしてもいだいてしまう「関心」のネガティブな面をも理解し、それを乗りこなしていくことが求められるのです。
P148
バーリンは、わたしたちが頻繁に言及する価値である「自由」には、政治的に重要な意味が少なくとも二種類あるのだと述べます。二種類とは「消極的な(negative)」自由と「積極的な(positive)」な自由です。バーリン自身の定義をみていきましょう。
消極的な自由:「主体――個人あるいは集団――が、いかなる他者からの干渉も受けずに自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放っておいてもらえる、あるいは、放っておいてもらえるべき範囲はどのようなものであるのか」という問いの中にふくまれている自由
誰かに干渉されない、なにかを強制されない自由。「放っておいてもらえる」自由
積極的自由:個人や集団のあり方や行動を自分(たち)自身で決定する際に認められるような自由。「自律的」
P154
他者同士が利害を調節し合いながら共生する社会ーー「皆で取り組む命がけの挑戦」-ーを安定的に営むという共通の目標について合意できるならば、そのためには各自の積極的自由の行使に対して一定の制限が必要となります。
ここで重要視されているのはバーリン流の「消極的自由」、つまり個々人の善の構想やその(一定の制限下で)追及について、周囲から放っておいてもらえる自由と表現できます。こうした自由は、前章の表現を使えば、他者の利害関心について「積極的に無関心」であろうとすることによって確保されているのです。
P160
ここでは、消極的自由の尊重という理念を度外視してでも介入し是正されるべき「悪さ」が示唆されています。
我々は子どもたちに教育を受けるように強いる、し、公開処刑を禁止する
バーリンが挙げているのは、「(養育に関わる)無知や野蛮さ」そして「残酷さ」
P213
シュンペーター
自分のいだく確信というものが相対的な妥当性しかもたないということを自覚し、それでもなおひるまずに、その信念を唱えること。それこそが文明人を野蛮人から区別するのだ。
P215
バーリンの「公と私」は、ロールズが公共的な「正義」構想と私的な「善」構想に対応している
「バザール」と「クラブ」
私的空間とは「英国紳士のメンバー制クラブ」、公的領域とは「中東のバザール(市場)」のようなものだ。
実際のバザールが(おそらく)そうであるように、市場を行きかい、思い思いに商談したり、冷やかしたりする無数の人々は、なんらかの「善」構想をきょうゆうするような一つの集団(共同体)ではありません。公共空間たるバザールには、その場所に高いメンバーシップをもつ個店の店主や顧客もいれば、流れの行商に新規客、よそ者、そしてスリに至るまで、おのおのがいだく目的においてまったく一致しないような人々が無数に集まっています。
こと商談という営みをいっしょにおこなう買い手と売り手にしても、その利害や思惑は対立します。さらに両者は相互に相いれない進行をいだいているかもしれないし、ほとんどの場合には取引以外ではなんの接点もないような間柄であるでしょう。しかし、それでも必要や利害関心が折り合った結果として、その店の軒先で商談という共有行為にのぞむわけです。これこそが公共的な空間です。
—
引用元 : https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784910327136
バザールとクラブ
朱 喜哲
ある一日を想像してみてほしい。
****
あなたは、広大なバザール(市場)でお店を開いて生計を立てている。そこは、老若男女を問わず人種も民族も宗教も異なる無数の人々が行き交う活気に満ちた場。いたるところで、多様な人々が丁々発止のやりとりをして商談を成立させたり、させなかったりしている。
お店にとって客は選べない。友だちが来てくれたり、はじめての客と意気投合することもあるが、ろくでもない客もひっきりなしに来る。珍妙な服装をしていたり言葉が片言だったりするのはまだいい。ことあるごとにいかがわしい宗教の決まり文句を連呼するし、どこの育ちか知らないがマナーも悪い。何より、とにかくありえない値切り交渉をふっかけてくる。こんな連中と心の底からわかりあうことなどありえない。
しかし、客は客だ。今日はなじみの客も少ないし、売上がまったく足りていない。精いっぱい愛想笑いを浮かべて、追従することにしよう。値切りだって、閉店間際ならちょっとは応じてやってもいい。せめて家賃分は稼がないと、こっちもやっていけないのだ。
……それにしても、今日はつかれた。作り笑いで顔が引きつるし、とにかくストレスのたまる一日だった。しかしまぁみごとに腹立たしい客ばかりだったが、それだって売上は売上だ。いつもの店にでも寄って、一杯やってから帰ろうじゃないか。あの店はいい。あそこは会員制のクラブみたいなもんだし、自分と似たような連中しかいないからな。あそこなら今日の愚痴だって気軽に言える。市場で言うと怒らせちゃうようなやつもな。そうだ、昼間見かけたあの珍妙な客、あいつをネタに一席打ってやろう。あの××め。おっとこれは店に入ってからじゃないとな……。まったく、あの店があるから明日もやっていけるよ。
****
この「バザールとクラブ」の挿話は、哲学者リチャード・ローティ(Richard Rorty, 1931-2007)の代表的な主張「公共的なものと私的なものの区別」を論じる際、必ずといってよいほど参照されるものである。オリジナル版よりもさらに想像の翼を広げて描写しているが、ここでは公共的空間としての「バザール」と、私的な空間としての「クラブ」が対比されている。生活のために「バザール」で生きていかざるをえないわたしたちにとって、一日を終えて退避できるような「クラブ」もまた必要なのだ。
このメタファーが秀逸なのは、公共空間としての「バザール」のしんどさ、そして私的空間としての「クラブ」の危うさが、ともに描き出されていることだろう。みんなが公共的な言動をしなければならない場所というのは、だからこそ安全ではあるのだが、しかし個々人にとってはときに疲れてしまうものでもある。逆に、それぞれの人が安心して引きこもり、気心の知れた仲間たちと自由な言動ができるような場所とは、もしかすると他所の人が聞いたならばぎょっとするような発言が飛び出したり、偏見や差別の温床になってしまうような場かもしれない。わたしたちは生活のための「バザール」も、そしてそれぞれの人にとって安心できる、それぞれの「クラブ」も、どちらも必要で、しかもそれは別々に分かれていなければならないのである。
ただひとつの「公共空間」であるバザールと、それをとりまく無数の「私的空間」としての会員制クラブとが地続きに隣接している―という、この空間的・地理的なメタファーはローティが思い描いている政治哲学的な構想をうまく描出している。そのため、ローティを紹介する際によく言及されるので、聞き覚えがある方もいるかもしれない。しかし、じつはこの比喩が登場するオリジナルの論文には、日本語訳が存在していなかったのである。そのため、この比喩の前後や、どんな文脈で登場するのかは、意外なほど知られていない。
ところが、こうした関心からすると、論文だけを読んだ場合には、一読して期待外れであるという印象をもたれてしまうかもしれない。というのも、本論文で「バザールとクラブ」が登場するのは、最後の二段落と一文に過ぎず、分量としても全体の一割強しかないのである。当該箇所じたいは興味深く読めるものではあるが、何しろ「公/私の区別」という主題それじたい、明示的には最後の四分の一程度でしか論じられていないのだから、肩透かしを感じられてしまうとしても無理はない。
しかしながら、一読だけではわかりづらいのだが、わたしの考えでは、本論文は、全編を通じて、この「公/私の区別」というローティの論点が散りばめられた論文として読むことができるのである。ただし、それには本論文が置かれている論争の文脈を補い、登場する話題やキーワードについて理解する必要がある。
以下、見出しを分けながら、本論文の読みどころについて、とくに念頭に置かれている「論争」の解説を中心に説明していく。先にこちらを通して読んでいただいても、論文を読み進める上で、わかりづらいキーワードが出てきた場合に、対応する箇所を読んでいただいても、どちらでも問題ない。ただし、言うまでもないが、これらは多分にわたしの解釈がほどこされている。そのため、とりわけ研究者の方には批判的に読んでいただき、またオリジナルの論文にも当たってほしい。
(本文冒頭より)