議会改革と事務局

2019年6月号 ガバナンスより
「自治体議員と議会局職員の距離・関係」続・議会局「軍師」論
2015年5月号の続編

市民の議会に対するイメージ
「議員のお世話役とは大変だな。政治家は皆自分を中心に世の中が回っていると考えている人たちだが、それでも市長は最終的には個人として責任を問われるのでまだマシだ。議員は他人を批判するだけの、言いぱなしの人達だから、議会事務局員はさぞかし大変だろう」

昨年(2018年)全国地方議会サミットよりパネルディスカッションの小林宏子・東京都羽村市議会事務局長
「部下が議員へのお茶汲みや昼食の段取りなど、公務とは言えない雑務で疲弊してゆく姿を見て「議会事務局だけ20から30年、時が止まっていたのかと思った」と議会の時代錯誤ぶりを語った。
全国の議事運営に目を転じても、30年以上前のマニュアル本を頼りに、結論に至る根拠として引用される行政事例は半世紀以上も前のものといった業務は、執行機関では稀有であろう。
議会の世界では、議事運営以外でも、執行機関にも増して広い意味での「先例主義」が定着している。もちろん、過去の事例に倣うことで不測の事態を防止し、円滑な実務執行に資する一面もあり、先例に倣うこと自体を否定するつもりはない。問題は、議員との軋轢を恐れるあまり、条件反射的に先例にならって業務を流すことを優先し、対応の適否について改めて考えようとしない「思考停止症候群」とでも呼ぶべき状態に陥りがちなことである。
先例は、一般的な過去の状況において最適解と判断されたものに過ぎず、現在の社会状況に照らしても最適であるかは別問題である。
もちろん、現在の最適解であることを検証した上で、先例通りの対応をすることは何の問題もない。
だが、「伝統を守る」という大義名分のもとで、安易に先例に習い続けることのツケが、結果的に議会を時代遅れにさせたのではないか。
合理的な説明が困難な主張を押し通す時に、議論に終止符を打つ時のキーワードとして使われがち。
(合理的な説明をしない議員が多かったことの裏返しでは・・・)

また驚かされるのは、執行機関では地域の特性に合わせて独自施策を模索しようという機運が高まっているが、むしろ議会の方が自己完結できる機関であるにもかかわらず、横並び意識が高く、全国でステレオタイプを志向していることだ。
まずは、議員とともに局職員も旧来からの価値が時代に適うものなのかを検証しなければ「新時代の議会」の実現はおぼつかないだろう。

局職員の意識改革の必要性
東京都多摩市議会の岩永ひさたか議員は、議長時代に「市民感覚からは時代遅れに思える先例や慣習に固執するのが仕事のようだ。“おかしい”と感じても、議員に進言することを避けるのは“余計な口出し”をすると“返り血”を浴びることを恐れる気持ちがあるからだろう」(2018・12毎日フォーラム)と局職員の余計なことをしない、行動意識を分析している。
ここでは議員の立場からも、局職員との関係性が、議会改革の要諦だと課題提起されている。しかし、自治体において、公選職と任命職が混在する機関は議会だけではない。執行機関においても同様の議論があっても良いが、首長と職員との距離、関係が、改革の優先課題として捉えられることはない(優先課題ではないが課題であることは感じる)

一部の議会では両者の関係性の変化の兆しは見られる。
全国から集まる事務局員研修でのアンケートで「議会に発意するスタンスや、仕事は市民のためにする
」という視点が新鮮だったという意見が多かった。裏を返せば局職員は議会に対して受動的、かつ、議員のために仕事をする存在でなければならないという思い込みが、いまだに全国標準ということだ(議員は何様?)すべての地方公務員は公選職ではなく、市民のために働くことが義務付けられているにもかかわらず、議会へ異動すると議員のために働くと錯覚しがちになる。特に誰のために仕事をするのか、という根本的な部分がブレるのは、議会という機関の特徴がそうさせるようだ。(住民のために、この議員・この議会を動かないようにすることが自分の使命だと感じるような議員・議会ではなかっただろうか? 誰だ「こんな議員を選んだのは⁈」)
執行機関は首長一人の独任制機関、議会は複数による合議制機関との違いによるものだろう。執行機関では、最終的に首長個人の意思が、そのまま機関意思として反映されることに対して、合議制である議会では、議員個人の意思は多様であり、必ずしも執行機関とは一致しない。さらに議員活動では指揮命令系統を持たない不安定さと、公選職の多さが、局職員をより内部志向にさせる要因に思える。

●局職員は軍師たれ
このような制度的ハンデはあるが、局職員が市民のために仕事をしようとするなら、議員に対して発意することは必要条件である。(議員の言いなりにならない)もちろん局職員は脇役である。
執行機関職員であれば、ボトムアップはごく当たり前の行動であり、議事機関だから出過ぎたことになる合理的理由などない。
議会というステージで、市民のために仕事をするという目的は同じである。
局職員が、軍師となった時にルーティンをこなすだけの仕事でなく、議員と協働してこそ、チーム議会が成立する。

●越権行為の誤謬
一方で、国会法制局での政治的中立性を基準とした越権行為論が唱えられることもある。国会法制局で議員に受動的な対応をしていることだけを根拠に、地方議会でもそうあるべきとは思わない。それは法的根拠はないからだ。
例えば、地方公務員給与の水準に関する論点であれば、地方公務員法24条二項に規定する国の基準に準ずることの法的根拠があるが、議会での政策立案への局職員の関与についてはそのような根拠はない。
政治的中立を言うのであれば、首長だけが政策を作るわけではない。職員が政策の青写真を書いて首長に進言することで政策が出来ることもある。
執行機関と比較して同職員が、議会の政策立案過程で同様の行動をとることになんの懸念がある

●誰に対して発意するのか
「局職員による発意と言うが、公選職が多数いる中で誰に発意すれば良いのか?」
局職員が良いアイデアが浮かんでも、機関として検討過程に載せようがないという。
政策立案組織体制が整っていれば、最終的に議員全員の理解を得れば、執行機関において首長を説得できたに等しい。「局職員から、よろしく発意などしてはいけない」という姿勢は「難しいからやらない方が無難」との理論を正当化する後付けの理屈としか思えない。

●民主主義の前提は、自分頭で考えて判断すること
「民主主義は一人一人が自分の頭で考えて判断することを前提としている」池上彰。
標準議会規則や国会への準拠意識、ガラパゴス状態にもかかわらず横並びを強く意識する文化など、誰もが疑問を感じず大前提とされてきたことこそ、自分自身でゼロベースで再考することが必要。「大津市議会の会議規則条例化」など。
思考のスタート地点を誤ると、その時代の最適解には到達できない

●求められる議員と局職員の距離・関係とは
過去から大津市議会議員には、局議員ともフラットに議論しようとする懐の深さがあり、協働意識が根付いている。
議会改革の進展に最も求められるのは「良い意味での暴走する局職員」とそれをあえて許容し、議会をまとめられるリーダー的議員」の存在だよね。ウチには暴走してくれる局職員は皆無だしと嘆いていた。光栄の至りである。まさに、その関係性こそが新時代の自治体に求められる「自治体議員と議会局職員の距離・関係ではないだろうか。

清水 克士 しみず かつし
大津市議会局次長