議会局「軍師」論のススメ(1-10) 清水 克士

Profile
大津市議会局長
清水 克士
しみず・かつし 1963年生まれ。同志社大学法学部卒業後、85年大津市役所入庁。企業局総務課総務係長、産業政策課副参事、議会総務課長、次長などを経て2020年4月から現職。著書に『議会事務局のシゴト』(ぎょうせい)。

議会局「軍師」論のススメ 第1回 議会事務局は異文化社会なのか?
NEW地方自治 2020.04.01

議会局「軍師」論のススメ
第1回 議会事務局は異文化社会なのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年4月号)

議員と議会局職員の協働成果
大津市議会では、3年連続のマニフェスト大賞受賞による広報効果もあり、年間130件を超える視察を全国から受け入れている。その多くが、議会からの政策立案と議会改革に関するものであり、議員と議会局職員が協働する「チーム大津市議会」の成果についてである。

そして、よく尋ねられるのが、「何故そのような協働関係が成立するのか」ということである。それは、会派を超えた議論ができる文化が醸成されていることや、議会の補助機関たる職員(以下、「局職員」)の提案にも真摯に耳を傾ける議員の懐の深さによるところが大きいのであるが、局職員の感覚が他とは異なることも大きな理由と感じている。

また、大津市議会では補助機関の組織名称を、15年4月の議会基本条例施行と同時に、「議会事務局」から「議会局」に改めた。それは、「名は体を表す」といわれるとおり、議会運営上のルーティンワークをこなすだけの存在ではなく、議会、議員に発意する職員組織であることを外形的にも示すためである。そして、その名に相応しい機能発揮ができるかについては、局職員の意識、感覚が重要なポイントである。

したがって、このコラムでは私が唱える「局職員は議会の参謀であるべきだという『軍師』論」について、局職員の意識改革の必要性を中心に、私見を述べていきたい。

求められる意識改革
まずは、意識改革が求められる背景についてである。一般に、局職員の意識、感覚は、執行機関の補助職員(以下、「執行部職員」)とは、同一自治体の職員であっても大きく異なることが多く、また、異なるべきだと思い込んでいる。もちろん、執行部職員の意識、感覚が全て正義などと言うつもりはない。しかし、市民目線で両者を比べたときに、特に民主主義度や情報公開度などの観点においては、局職員の意識は、より保守的、悪く言えば遅れているように見えることが多いのも事実ではないだろうか?

そして、時代錯誤との指摘に対する反論に、日常的に持ち出されるキーワードがある。それは、「それが議会の『伝統』と『格式』であり、『権威』を守ること」との文脈で使用される。もちろん、良き伝統や格式は受け継ぎ、住民の代表機関、自治体の最終意思決定機関としての議会の権威は保持されるべきものである。だが、これらのキーワードは、時代背景や市民感覚を踏まえて、外部に対する合理的説明が困難な場合に用いられることが少なくない。
そして、そのような場面での主張は、概して主観的かつ情緒的で、前例を踏襲すること自体が目的化してしまい、考えの異なる人に対する論理的説得力に欠けている
また、その多くが内部視点からだけの主張であるがゆえに、外部視点、とりわけ市民から見たときには、違和感を覚えることになるのである。

それが顕著に表れるのは、選挙で選ばれた市民の代表(以下、「公選職」)に仕えるスタンスである。議会事務局の世界では、議員からの求めがない限りもの申さないのが、公選職に対する敬意だと誤解(あえて確信?)する向きがある。
だが、執行機関ではトップダウンによる政策も多いが、ボトムアップによることも一般的である。
一方、議会では局職員からのボトムアップはもちろん、議員に意見具申すること自体が憚(はばか)れるという雰囲気が多くの議会ではあるようだ。次号では、その是非について詳細を語りたい。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

 

(「議会事務局の職員も、政策提言してもええやん」という話)

 

————

議会局「軍師」論のススメ
第2回 なぜ、議員だけが「先生」と呼ばれるのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年5月号)

なぜ職員は議員を「先生」と呼称するのか
私が議会局(当時の議会事務局)に着任して間もない頃、執行部時代からの習慣で、議員を「先生」と呼んでいたことがある。だが、議員からは「事務局から『先生』と呼ばれるのは変だよね」と言われ、局職員からも「ここでは議員は身内だから、『議員』と呼んだほうがいい」と意見されたことがある。そういわれれば、市長のことを「先生」と呼んだことなどないのに、なぜ議員のことを「先生」と呼んだのだろうか?

他議会で議員を先生と呼ぶ人からは「選挙で選ばれた市民の代表(以下、『公選職』)だから敬意を表するうえで当然」との意見も聞くが、やはり同じ公選職である首長のことを、職員が「先生」と呼称している例は聞いたことがない。そして心理的上下関係を印象づける呼称の違いが、そのまま任命職である職員の、公選職に対するスタンスの違いにも反映されている。

それは、執行部ではボトムアップによる政策提案もめずらしくないが、議会では「職員から発意すること自体が越権行為」とされることに象徴される。議会のほうが、公選職と任命職の距離がより遠いのである。だが、公選職に仕えるという観点からは、どちらの職員の立場にも違いはないはずである。

法的にも首長は「その補助機関である職員を指揮監督する」(地方自治法154条)とされ、一方、議会では「事務局長は議長の命を受け、職員は上司の指揮を受けて、議会に関する事務に従事する(一部略)」(同法138条7項)とされる。つまり、議長と局職員の関係は、首長と職員の関係と同様の上下関係である。逆に言えば、それ以外の議員には局職員に対する指揮命令権もなく、その法的関係は執行部における関係よりも、むしろフラットともいえる。

また他の観点からも、独任制機関の職員からの発意は許容されても、合議制機関の職員からは許容されないとする法的根拠もない。最終的な意思決定ができるのは、首長、議会であるが、議会の場合にだけ議論の過程に職員が関わることができないとする合理的理由もない。選挙で選出された民主的正統性の有無についても、それは首長と執行部職員との関係においても同様である。議会における民主的正当性は、本会議や委員会での議論、議決に加わるための要件であり、それ以外での議論に局職員が参加できない根拠とはならない。ゆえに職員が議会内部での議論、発意を行うには、公募の競争試験で選抜されて議会に配置された、任命職の法的正統性をもって必要十分であろう。

局職員の立ち位置とは
では、なぜ局職員は議員との距離を置こうとするのか? あくまで私見だが「そのほうが局職員にとってラクだから」というのが本音ではないだろうか。議員と必要以上に近づけば、事の顚末に巻き込まれる可能性が生じる。そして、局職員から下手に近づかないほうが賢明、という潜在意識が「議員からの求めがない限り職員から発意などしない」という行動にもつながるのではないか。

つまり、議員を「先生」と呼ぶのは、敬意の裏返しとして生じる心理的上下関係によって、あえて議員との距離を保ちリスクヘッジしようとする意識の表れと思うのは、的外れな分析だろうか。

だが、議員との遠い距離感は、時には局職員から広義での議会構成員としての自覚を奪い、確信的「ひとごと意識」へとつながる。その弊害について、次号で述べたい。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

———–

第3回 議員のやることは「ひとごと」なのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年6月号)

ひとごと意識がもたらす弊害
前号では、局職員が議員のことを「先生」と呼ぶ遠い距離感は、時として局職員の議会、議員に対する確信的「ひとごと意識」につながると述べた。そして、その「ひとごと意識」は実務上も、大きな弊害をもたらすことがある。

政務活動費の使途が問題化した他議会で、その経緯を聞いたときのことである。やはり、説明する局職員が議員を「先生」と呼び、その内容からも明らかに議員との距離が遠かった。結果として不適切な支出に気づくのが遅れ、今さら改善を迫ることが難しい、という悪循環に陥ったと感じたのである。

政務活動費制度は他の公金支出とは異なり、性善説的な制度設計がされている。立法論はともかく、現行制度を前提に適正運用を図ろうとするなら、議会局が議長権限を背景にチェック機関の役割を担うことは必須条件である。

しかし、議員を「先生」と呼ぶ職員が、議員と対峙して本当に市民視点でのチェックができるのだろうか。少なくとも政務活動費の使途適正化に関して言えば、議員との遠い距離感はマイナス以外の何ものでもなく、それを保持しようとするのは、議員の行為に巻き込まれたくないという、確信に満ちた「ひとごと意識」のあらわれのようにも思える。

その他にも、政務活動費問題で「ひとごと意識」を感じた例がある。ある議会の局職員がマスコミの取材に応じて「支出をどう考えるかは議員それぞれの問題。議会自身で新しいルールを考えてもらうしかない」と堂々とコメントしていたのである。

局職員も議事機関の一員
たしかに局職員は議会の補助機関であり、議会の構成員ではない。しかし、仮に政務活動費問題を首長の交際費問題に置き換えた場合、秘書課職員が、「交際費の支出をどう考えるかは首長個人の問題。行政全体で新しいルールを考えてもらうしかない」などとひとごとのようなコメントをして許されるだろうか。局職員に広義での議事機関の一員であるとの意識がないから、このような「ひとごと」のようなコメントになるのではないか。

大津市議会では政務活動費の支出ルールについて、議会運営委員会で私から改正案を提案説明し、真っ向から議論を挑んだことがある。

もちろん、調整未了の議題を議会運営委員会にかけるのはスマートではない。しかし、非公式の事前調整ではどうしても全会派の合意が得られず、問題の先送りも危険だと感じていたところ、当時の竹内照夫議長の理解もあって公の場での議論が実現したのだった。

そのような議論を局職員から仕掛けることに冷ややかな視線もあった。だが、それでも議会の信頼を守るために必要と判断したなら、最後は公の場でも議員と議論する覚悟が局職員にも必要だと考えている。

局職員にとって政務活動費に関する業務は、どちらかというと担当業務の中でも付加的で負担感が伴うものである。しかし、議事運営や秘書業務の錯誤によって訴訟や刑事事件に発展することは稀であるが、政務活動費に関しては残念ながら〝日常茶飯事〞である。

そして、問題が表面化して議会の信用が一瞬にして地に墜ちた例は、枚挙にいとまがない。むしろ議会の危機管理の観点からは、政務活動費関連業務こそ、他のどのような業務に優先してでも対処すべき仕事である、と局職員も認識を改める必要があるのではないだろうか

*文中、意見にわたる部分は私見である。

———-

第4回 議会運営の「先例」は「麻薬」なのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年7月号)

 

先例主義の弊害
今号では局職員に定着している「先例主義」の弊害について述べたい。

議会における先例は、例規の隙間を埋めるものとして、円滑な議会運営のための指針とされ重用されている。だが、同時にいくつかの看過できない問題も内包している。

その1点目は、先例の本来の意味は過去事例にすぎないにもかかわらず、内部規範として作用し、時として超法規的な議会運営の拠りどころとされてしまうことである。

具体例として、参議院のホームページでは先例について、「例えば、憲法第条第1項において、内閣総理大臣の指名は他のすべての案件に先立って行うよう定められていますが、実際の議事運営においては、議員の議席指定や正副議長の選挙などの議院の構成のように、内閣総理大臣の指名に先立って進めるべきものもあります。このように、法規の内容では足りないところを補充しながら円滑な議事運営を図るためよりどころとなるのが先例です」と解説されている。

だが、その運用は「法規の内容では足りないところを補充している」のではなく、「法規どおりに執行しない拠りどころにしている」ということではないだろうか。

たとえ、それが住民にとって直接不利益にならないことであっても、執行機関で前例どおりであることを理由として、法の規定を超越したような実務を行おうものなら、たちまち議会で問題とされるであろう。ところが、議事機関の内部においては、先例が憲法の上位規範のごとき運用が公然とされていることに、私は違和感を覚える。これは、決して国会だけの問題ではなく、地方議会においても同様である。

時代に即した判断を
そして、2点目の弊害は、時代錯誤な判断が継承されがちとなることである
もちろん先例に拠ることは、過去の事例に倣うことで不測の事態を防止し、円滑な事務執行に資する一面もあり、そのこと自体が全否定されるものではない。だが、一般的に過去の状況において先人が最適解として判断したものが、現在の状況に照らしてもそうであるかは、多くの場合、別問題である。
つまり、現在の最適解であることを検証したうえで、先例どおりの対応をすることには何の問題もないが、時として「伝統」を守るという大義名分のもとで、時代にそぐわない判断の拠りどころとされてしまうのである。

特に議会における先例は、執行部における前例踏襲主義とは趣が異なり、事実上の慣習法として作用する。

それは、先例が探索されるときの多くは時間的にも切迫した状況であり、よほど客観的な異論を即座に唱えられない限り、そのまま前例踏襲されるからである。
つまり、局職員にとっても「それが先例です」と言うだけで議員からの異論を退け、迅速な議事進行を実現する魅力的なツールとなっている。そしていつしか、先例に該当する事態が生じると、条件反射的にそれに倣い、対応の適否について改めて考えようとしない「思考停止症候群」とでも呼ぶべき状態に陥ることになる。

先例は、安定かつ効率的な議事運営に資するものであることは間違いないが、それに囚われると進歩からは無縁となる。いわば「先例」は、適正な使用管理をすれが効果抜群の薬であるが、漫然と常用すると死を招く「麻薬」に似ているとも感じるのだが、いかがだろうか。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

——-

第5回 「申し合わせ」は「公然の秘密」なのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年8月号)

「申し合わせ」の不透明性
前月号では、「先例」の超法規的運用について述べたが、議会内での合意事項を明文化した「申し合わせ」についても、同様の側面がある。市民にもその存在を知り得る代表的な例としては、正副議長改選の翌日の朝刊に載る「任期は申し合わせで〇年」という記事であろう。

それは、あくまで正副議長が自主的に特定の時期に辞職する結果であり、地方自治法第103条2項の「議長及び副議長の任期は、議員の任期による」との規定に照らしても、形式的には合法である。だが、執行部において、立法趣旨を否定するような内部規定を作り、運用しようものなら批判は必至である。

さらに「申し合わせ」に疑問を感じるのは、市民がその内容を知るのは難しい不透明な存在であることだ。執行部では、「要綱行政」が批判され、現在では例規化が進んでいる。それは、法的効力を持たず、内部限りで決められる不透明なルールに拠って意思決定することが問題視されたからである。

そもそも、自治体内部の執行部職員でさえ「申し合わせ」の詳細をどれだけ知っているだろうか。まして、外部の市民にとってはその存在さえ知らされず、内容は情報公開請求しない限り、知る由もないというのが多くの実態ではないだろうか。

その根底の考え方には、議会例規の体系自体が、議会内部の組織、運営に関する事項については他者からの干渉を排除して決められるという「議会の自律権」の考えに沿ったものになっていることがある。会議規則についても、規則という法形式を採用することに拠って、首長の例規制定改廃権や市民からの直接請求権の枠外へ置いているが、それは議会内部の論理であり、市民視点で捉えた時に本当に理解が得られるものなのであろうか。権力の相互牽制や市民からの直接請求によって、民主主義を担保しようとする根本原理からは疑問を感じざるを得ない。

会議規則条例化の意義

そのような観点から、大津市議会では2014年に会議規則を廃止し、会議条例と会議規程に再編することを主体とした例規体系の見直しをした。

再編のポイントは、①憲法で保障されている重要な権利である「請願」に関する要件事項や、市民に拘束力を及ぼす規定は、議会でのみ改正できる規則ではなく、市民の直接請求によっても改正可能な条例で定めたこと、②市民に分かりにくい「会議規則」と「委員会条例」の形式的上下関係を、一般的な法体系(法│条例│規則)に改めたこと、③手続に関する条項などは、機動的改正が可能な議長告示形式の「会議規程」に規定するとともに、「要綱」を全廃し、「先例」、「申し合わせ」などの不透明な規定も「会議規程」に取り込むことによって、議会運営ルールのほとんどをホームページ上でも閲覧可能とする「見える化」を図ったこと、などである。

この例規再編に際しては多くのご意見をいただいたが、気になったのは研究者的視点での学術的議論に流れがちとなることである。

だが、少なくとも私は、市民視点でその利益を最優先する法解釈を心がけるべきだと考えている。そして議論の大前提としては、まずはルール自体を市民にわかりやすく伝えることを最優先すべきだと思う。それは、内部運営ルールを「公然の秘密」とするような組織が、市民からの信頼を得ることは難しいと考えるからである。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

———–

第6回 条例改正議案の「改め文」は「暗号」なのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年9月号)

市民視点に欠ける「改め文方式」
前号までは「先例」「申し合わせ」などの「見える化」を図り、議会運営ルールを市民に分かりやすく伝える必要性について述べた。だが反面、見えても理解できないものでは、市民に伝える意味がないのも事実である。

例えば、議会に提出される条例の改正議案については、「第〇条中『△△』を『□□』に改める。」という「改め文方式」が主流である。しかし、行政職員であっても、法制執務に精通した職員でなければ、参考資料の新旧対照表抜きで改正内容を正確に理解することは極めて困難である。ましてや、一般市民がそのような議案を見て、内容を理解できるとは到底思えない。そうであるならば、新旧対照表をそのまま議案にする「新旧対照表方式」を導入すれば、市民にとってより分かりやすいものになるのは明らかである。しかし、例規改正方式を定めた法はないのに、多くの自治体では慣例で盲目的に国の例に倣い、「改め文方式」が定着している。

国が「改め文方式」をとっている理由については、2002年の衆議院総務委員会において明らかにされており、内閣法制局は「改め文といわれる逐語的改正方式は、改正点が明確であり、かつ、簡素に表現できるというメリットがあることから、我が国における法改正の手法として定着している。一方、新旧対照表を改正法案の本体とすることについては、一般的に改め文よりも相当に大部となり、正確性を期すための事務にこれまで以上に多大の時間と労力を要する。また、新旧対照表ではその改正の内容が十分に表現できないことから、実際上困難」という趣旨の答弁をしている。だが、その答弁は、内部視点からの論理であり、そこに市民に対する分かりやすさという視点での考察はない。

議会において審議する内容が、参考資料を見なければ意味が分からないという状態で「見える化」が図られていると言えるのだろうか。できない理由を並べることは簡単であるが、議会運営のルールと同じく、市民に分かりやすく伝えることを最優先に改善案を考えるできなのではないだろうか。

しかし大津市でも、「新旧対照表方式」によるのは議会提案の条例改正議案だけで、市長提案のものについては執行部の方針により「改め文方式」である。

議会と首長の「善政競争」
このことをある研修会で話したところ、「新旧対照表方式」の是非よりも、それを議会だけが採用していることに驚かれたことがある。そこには、執行部に先んじて議会が新たなことをするものではない、という潜在意識があるように思える。だが、大津市ではBCP(業務継続計画)策定やタブレット端末導入などについても議会が先行しているが、それで市民の不利益になったことはない。

むしろ、市民にとっては自治体全体のレベル向上が図られるのであれば、議会と首長で事務処理方式が異なろうが、どちらが先行した結果実現できた施策なのかなどはどうでもよいことである。要は自治体全体が高まる契機となったのであれば、そのようなこだわりは内部視点のものに過ぎない。

その意味では、市民福祉の向上に資するため、北川正恭早稲田大学名誉教授が提唱される議会と首長の「善政競争」を、大津市ではわずかながらでも具現化していると言ったら我田引水であろうか。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

————-

第7回 例規は誰のためのものなのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年10月号)

「改め文」を書くスキル
前号では、議会に提出される条例改正議案には、「議会の見える化」の観点から市民に分かりやすい「新旧対照表方式」を導入すべきとの考えを述べた。それは、議案という重要な情報であるにもかかわらず、市民に理解不能な形で情報提供したところで、「市民に開かれた議会」などと言えないからである。

だが、大津市議会で「新旧対照表方式」を導入した直接のきっかけには、担当者に「改め文」を書くスキルがないことが、例規改正を消極的にさせる理由のひとつだったこともある。

当面は、私自身に法制執務の経験があったので、所管を超えて例規改正事務を引き受けた。しかし、「改め文方式」を前提として考える限り、スキルを持った職員を常に確保する、未経験者に研修などに派遣してスキルを取得させる、民間の法制支援システムを導入するなどの対応策が必要となる。ところが、大津市議会局の規模に鑑みると、法務経験者を常時確保できる保障はなく、その他の対応策も費用対効果を考えると疑問である。また、作業としても新旧対照表の作成から始めるなら、それを議案化した方が事務効率的にも理があるのは明らかである。

根治療法的対応を目指す
そもそも例規改正方法については何ら法定されておらず、慣例で「改め文方式」がとられているに過ぎない。ほとんどの人が、それに依らなければならないと思い込んでいるだけである。現状のルールを維持することに合理性がないならば、発想を転換し、ルールの方を変えれば良いのである。

一般的に人は課題に直面すると、既存ルールの範囲内で対応策を考えがちである。もちろん決められたルールを守ることは大事である。だが、既存ルールの範囲内での対応策は対症療法的とならざるを得ず、根本的解決に至らないケースも多い。したがって、ルールを変えることによって課題解決できる場合は、躊躇することなく既存ルールの変更を対応策の最優先選択肢とし、根治療法的対応を目指すべきだと考える。

そして、そのルールが例規である場合には、法律論や内部視点からの議論に流れやすく、市民視点が抜け落ちがちになると感じる。もちろん法律論も重要ではあるが、極論すればそれは学者の仕事であって、現場で課題に直面する自治体職員の仕事ではない。自治体職員として最も必要とされる法務の要諦は、市民視点で直面する課題の解決につながる法解釈をし、例規を立案することではないだろうか。

当然、そのような視点での法解釈、例規立案は、通説や立法者意思、有識者意見、行政実例などに反することも多くなるだろう。それは、現場から遠い中央での見解であるため、ある意味必然だと思うが、長く中央の見解を権威化し拠り所としてきた地方においても、それに反する見解の主張はタブー視されてきた。

しかし一方で、それらの見解は十分参考にすべきものではあるが、盲目的に従ったところで、合法性を担保してもらえるわけではない。最終的には自己責任であるなら、市民利益を最大化する法務を自らの頭で一から考えて行うことによってこそ、真の地方分権が実現するのではないか。

そして、特に議会例規に関しては、「議会の自律権」の名の下でさらに内部視点に偏っており、市民感覚とのズレを感じる。次号では具体例に即して述べたい。

*文中、意見にわたる部分は私見である。
———–

議会局「軍師」論のススメ 第8回
「行政実例」は水戸黄門の印籠なのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年11月号)

最高裁判決から得た教訓
前号では、行政実例など中央の見解をよりどころとせず、自ら考えて行う法務が、真の地方分権を実現すると述べた。それは、大津市での行政実例に従った措置が、最高裁判決で違法とされた苦い経験を踏まえたものである。

その裁判概要は、大津市が市民税滞納者に対し、貸金債権を差し押さえ、貸金債務者に対して支払命令を申立てたところ、貸金債務者が異議を申立てたことによる支払命令申立移行訴訟での、議会の議決の必要性が争われたものである。

本来、訴えの提起には地方自治法に基づき議決が必要であるが、「支払命令申立は訴えの提起に該当しないとの国の解釈に基づけば、異議申立が提起されても、原因が支払命令事件であり議決不要と考えて良いか」との問いに対して「お見込みのとおり」との回答がなされた行政実例に従い、市は議決を経なかった。

ところが判決では「市の申立てた支払命令に対し、債務者から異議申立があり、民事訴訟法の規定により支払命令申立時に訴えの提起があったものとみなされる場合は、議会の議決を経なければならない」とされ、市は敗訴した。ここで得られた教訓は、行政実例は国が示した法令解釈の一説に過ぎず、何ら適法性を保証するものではなく、無条件に議論の前提とすべきではないということである。

政策実現のための必要条件とは
また、その一方で課題に対する法律論としての議論は、職員としては実益が少ないとも思っている。それは、行政課題の多くは、地方議会の例規改正権限が及ばない法の解釈や行政実例などと相反する部分が論点となるが、法律論をベースにすると、結局はできない理由探しの議論や、法の規定はどうあるべきかといった立法論に流され、課題解決に至らない不毛な議論になりがちであるからだ。

したがって、私は課題に対してどのような状態を実現したいのかを、まず前提として固め、それを実現するにあたって障害となる通説とは結論を異にする少数意見などを参考に、実現したい状態に整合する法理論を最後に構成する。そのような考えで臨むのは、職員としては、直面する課題の解決が最優先任務であるからだ。いわば、弁護士が通説や判例と異なることがあっても、依頼者利益を優先した弁護のための法理論を構成することと同様である。

もちろん実現したい結論に導く法理論が、合法性を前提としたものであるべきことは当然である。だが、法律論をベースに議論を始めると、本来、合法性判断は司法の場でしか最終決着し得ないにもかかわらず、多くの場合、通説や行政実例に示す範囲が法の枠内であるとの前提に囚われてしまい、自分で新たな視点での理論構成ができなくなる弊害を強く感じるのである。

私は、立法機関である議会の政策立案機能の発揮は政策条例の制定によることが第1選択肢であると思っている。だが、局職員が法制執務や法令解釈などの技術法務だけを守備範囲とする限り、それはなし得ない。そして、行政実例など中央での見解を「水戸黄門の印籠」のごとくふり回すのではなく、市民視点で自ら考えて法解釈し、政策実現のための自治立法に資する政策法務に挑戦することが、その必要条件だと確信している。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

————

第9回 「逐条解説」はバイブルなのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2016年12月号)

とある紳士からの質問
前号まで、法解釈の際に通説や行政実例に囚われず、自ら考えることの重要性について述べた。それは、通説とされる法解釈といえども絶対ではないと、私自身感じた経験があるからだ。

それは2015年3月の日本自治学会セミナーで、発表の機会を得たときのことである。その場では、政策立案機能の強化策として、大学とパートナーシップ協定を締結して、専門的知見の活用を図っている大津市議会の手法を中心に説明した。

セミナー終了後、一人の紳士から質問を受けた。その内容は、「大津市議会の専門的知見の活用は、地方自治法100条の2に基づくものなのか」ということであった。私は「『逐条地方自治法』(以下「逐条解説」という)において、調査対象、期間、調査を依頼する相手方氏名、結果の提出方法など、事細かに議決を要すると解釈されており、実務上の機動性が阻害されるため、法適用はしていない。法律は現場ニーズを反映していない」との主旨で答えた。すると紳士は微笑んで「そうか。じゃあ次の改訂では考えておくよ」と答えて立ち去られたが、その時は返答の意味がわからなかった。その紳士が逐条解説の著者である元自治事務次官の松本英昭氏だと知ったのは、不覚にも会場の立教大学を後にしてからのことであった。

現場ニーズに応えるバイブルたれ
その言葉どおり、同年夏に発刊された第8次改訂版逐条解説の当該条項の[解釈]では、議決を要するという解釈自体に変更はなかったが、議決内容を列挙した解説文の後に、「が、事例に応じて柔軟な内容にすることはできるであろう」との記述が追加された。

後日、人を介してではあるが、その部分の改訂は、先の日本自治学会でのやりとりがきっかけであったと聞いている。この件では、一介の議会局職員の意見を真摯に受け止めてくださった松本氏に畏敬の念を感じるとともに、一方で得た教訓もあった。

それは、必ずしも法改正がされずとも、法の運用は変わり得るということである。もとより法100条の2の条文自体に議決が要件とされているわけではなく、あくまで逐条解説の[解釈]に記載されていることである。その[解釈]の内容も、法を所管する総務省の公式見解として変更されたわけではなく、旧自治省OB個人の見解が変わったということに過ぎない。

だが、地方自治法の解釈では逐条解説における[解釈]はともすると絶対視され、あらためて自分なりの解釈をしなくなるのは、前号で述べた「行政実例」の扱いと同様である。

誤解がないよう強調しておくが、私は有識者の意見は大いに参考にすべきであると思っている。しかし、同時に、それを動かせない大前提として法解釈するのではなく、ゼロベースで自ら考えるべきだと主張しているだけである。

また、同時に得た教訓としては、現場ニーズと法令の規定に乖離を感じるときは、国や有識者にも、その事実を積極的に伝える努力も必要だということである。もちろん、今回のようなことはレアケースであり、具体的にどうやって中央に発信していくのかという課題はある。

しかし、それでも伝える努力が必要だと思うのは、やはり「バイブル」として認識されているものに書かれていることは、最初から現場ニーズに応える内容であるに越したことはないからである。

*文中、意見にわたる部分は私見である。

————-

第10回 議会の「常識」は誰が決めるのか? 清水 克士
(月刊「ガバナンス」2017年1月号)

何をもって議会の意思決定とするのか
世の中には、例規のように明文化はされていないが、前提として疑わない認識としての「常識」がある。それは時として普遍的な真理のように語られるが、「常識」は地域や業界によって異なり、また、時代とともに変遷していくものでもある。そして、議会の世界での「常識」の一つには、議決に拠らなければ議会の意思決定はできない、というものがある。だが、本当にそうだろうか。

大津市議会では現在「(仮称)大津市議会意思決定条例」の制定を検討している。その概略は、議会運営委員会決定や議長決裁をもって、議会の意思として差し支えないと判断した事項を、あらかじめ条例で定めて機動的な議会の意思決定を実現しようとするものである。市民視点からのメリットとしては、形式的議決を得るためだけの臨時会開催に要する費用や時間の節減に資するものである。

そのようなことを考えた動機のひとつには、前号で述べた『逐条地方自治法』(以下「逐条解説」という)著者の松本英昭氏との出会いにある。議会の専門的知見の活用については、「逐条解説」の地方自治法(以下「法」という)100条の2の[解釈]に議決を必要とするとの見解が示されており、制度運用の機動性を確保するため、大津市議会では法非適用との立場をとっている。

だが、松本氏との議論のなかでは、法に根拠を置かない専門的知見の活用に係る公費支出については疑念が示された。当時の大津市議会では、議員クラブという互助会会計から必要経費を支出していたが、いずれ公費からも支出しなければ継続できないと考えていたため、機動的運用と法的安定性を両立させるべく、議決をとらずに法適用する方法を模索し始めた。

もちろん、独自の法解釈で、条文に「議決しなければならない」とは書かれていないため、議決せずとも法適用は可能との見解も採り得る。しかし、その場合でも、何をもって議会の意思決定とするのかを、市民に明示する必要性があると思ったため、機動性の確保の方法論について、改めて考えることにしたのである。

常識こそ疑え
法に「議決しなければならない」と明記されているのは一部であり、多くは「議会は~できる」「議会の同意を得て」「議会の承認を得て」「議会の意見を聴いて」などの表現がとられている。したがって、法に「議決」と明記されていなければ、首長が事務決裁規程を定めて、全てを首長決裁としていないのと同様、議会の意思決定もあらかじめ条例で委任規定を定めておけば、議決以外でも可能と考えたのである。

松本氏も、「法文中の議決という単語の有無は意識的に使い分けられており、議決と明記されていなければ柔軟な議会運営は可能」との見解だと、間接的に聞いてはいるが、他に例のない条例であり慎重に検討している。そして、合議制機関の制度的弱点である意思決定手続の機動性不足を少しでも補う「常識」と、いつか議会の世界で言われるものを目指している。

「常識」は、多くの人の内面で権威化され、いつしかそれを常に前提に据えて思考を始める。だが、その「常識」こそ疑ってかからなければ、議会の現場における進歩はない。それは、時代や状況が移りゆくにもかかわらず、いつまでも100%正しいと言い切れることなど、そもそもあり得ないと思うからだ。

*文中、意見にわたる部分は私見である。