忍性さんメモ

引用
もしも日蓮聖人と極楽寺忍性がブクラーで知恵袋で叩きあっていればどちらが勝利しましたか?

>
zoprlmgeさん
何事も双方の言い分を吟味して判断するべきですね。

日蓮の伝記本は、日蓮自身の記した遺文(たとえば※1)に拠っています。
だから日蓮を祖師として信奉する作者の手にかかると、日蓮のすべてを絶対とする傾向が強くなります。
過去、大部分の日蓮伝はこの類が多いのです。

しかし一方の忍性は著作をほとんど残していません。

『梅原猛、日本仏教をゆく』(朝日新聞社)より、
>>日蓮は、怨敵調伏の祈りをして、幕府の信望を得ている忍性を仏敵と誹謗したが、忍性は日蓮を幕府に訴え、それによって日蓮は龍の口で首を切られようとしたと【日蓮側では】伝える。しかし忍性はそれについて【何も語らず、真相はよく分からない】< < 忍性に関する多くの研究には、日蓮と祈雨を競ったことのみが記されていて、忍性はほとんど日蓮を無視していたように述べられています。 また、「性公大徳譜」(忍性の伝記)にはまったく日蓮のことは出てきません。 伝統的な旧仏教の範疇にある忍性からみたら、新興の日蓮は取るに足らない存在だったのでしょう。
故宇井伯寿氏が『日本仏教概史』で述べておられる説、、、「忍性は日蓮に謗られても意に介さず、弊衣蔬食(へいいそしょく:ボロを来て豪華な食事はしなかった)、却って日蓮の宥免を請うた」を以下の論文において引用されている中村元氏も、(宇井氏同様)日蓮の言っていることに対して懐疑的です。 中村元著『奉仕の精神』より、 >>『本朝高僧伝』の伝えるところによると、『池上の日蓮、しばしば悪言を出して (忍)性を謗りて以って律国賊と為す。(忍)性は意に介せず、其(=日蓮)の 罪に陥るに及んで却って宥を平師(北条時宗)に乞う』という。
師蛮はこの論争 に対して客観的な第三者の立場にあり、史家として叙述しているから、『本朝 高僧伝』の記述の方が実情に近いのではなかろうか。
(中略)よくいえば日蓮は 信念に燃えていたから自信たっぷりだったということもできるかも知れない。

しかしこういう心理状態でなされた記述がどこまで忍性に関する事実を伝えているかは、はなはだ疑わしいと思う。

参考:本朝高僧伝(ほんちょうこうそうでん)
日本の僧侶の伝記。師蛮の著。 75巻。
元禄 15 (1702) 年成立。総目,巻首,本文で構成され,1664人の人々についての伝記が記されている。
三論,法相,倶舎,成実,華厳,律,顕,密,禅,浄土に関する高僧の伝記のほかに,明神,仙人,高徳な人の伝記も載せているが,親鸞と日蓮については触れていない。

以上見てきた事柄から私なりの結論を言わせてもらえれば、伝えられる日蓮vs忍性の物語は日蓮の一方的な【シャドーボクシング】に過ぎません。
リング上の忍性の人格は捻じ曲げられ、あるいは大げさに誇張され、日蓮は架空の忍性相手に一戦交えていたのでした。

(※1)
幕末の医師で、日蓮宗の信者だった小川泰堂が身延で御真蹟を照合した。
この際、本来、一つであったものが伝来の過程で分離され、「種種御振舞御書」「佐渡御勘気御書」「阿弥陀堂法印祈雨事」「光日房御書」といった別々の御書になっていると誤った判断をし、それらを一つにまとめ、「種種御振舞御書」とした。元々が四つの御書だったことは、寛文9年(1669年)に法華宗門書堂が出した、『刊本録内御書』によって確認できる。 【『日蓮大聖人と最蓮房』】北林芳典(報恩社)

・小川泰堂って人が四編を一書にまとめた時に、「文脈を整えた」可能性も捨てきれません。
ちなみに、その表現に誇大妄想的なものが見られるところから、(種種御振舞御書を書いた日蓮のことを)学研・日蓮の本では次のような感想が述べてありました。

歴史に残る宗教家には、この種の奇跡譚が少なからず存在する。
ただ、注目したいのは、この話は後世伝えられたものではなく、日蓮自らが記したことである。常人には伺いしれない人間性の澱(おり)を垣間見るようだ。