毎日新聞より
https://mainichi.jp/articles/20160510/ddl/k20/040/101000c
下条村・村長 伊藤喜平さん 愚直に「奇跡の村」づくり /長野
下条村・村長伊藤喜平さん(81)
全国平均を大きく上回る出生率を達成し、実質公債費比率が全国最低レベルと健全財政を誇る下条村。数々の改革を成し遂げた「カリスマ村長」の伊藤喜平さん(81)が、6期目の任期満了となる7月24日をもって引退するという。【長沢英次】
−−引退の理由は年齢ですか。
「そろそろ代わってやらんと。81歳というのは81歳だ、やっぱり。若い者がうらやましい」
−−そもそも村長は民間出身ですよね。
「ありとあらゆる仕事をした。ガソリンスタンド、車の整備工場とか。村の商工会の青年部でも一生懸命やっとった。青年部として、人がだんだん減って商売は伸びない、こんなことでは村がつぶれてしまう、と役場へ何回も来たんだけど、当時の行政は『そんなこと相談に来たって手の打ちようがない』と」
−−それで村議から村長に。
「村の職員のぬるま湯体質を何とかしたかった。村長選では、職員のほとんどが私に入れなかった。議会におる時分から『こんな体質じゃだめだ』と言っていたから、職員の皆さんとしては『相当手荒な変革があるぞ』っちゅうことだな」
−−伊藤さんが村長になったら大変だと。
「だから選挙で猛烈な反対をした。俺は職員と貸借関係はないわけで、今までの役場の体質をまず変えにゃいかんと、思い切った職員の意識改革をやった。飯田市の物品販売業の店頭に職員を立たせたの」
−−ホームセンターですね。
「そこで彼らは目つきが変わったわけ。こんな世界があるんだと。職員の意識が変わると、小さな村だもんで、村民がすぐわかるわけだ。魚の腐ったような目をしてもたもたしとったやつが飛び回ってるじゃないか、と」
−−資材は村が支給し、村民が自分たちで道路や水路の工事をするという資材支給事業も注目を集めました。
「職員を減らすから、村の皆さんにも手伝っていただきたい、汗をかいてくださいよということ。私はありとあらゆる商売をしとるもんで、村でやる土木事業くらいすぐわかる。これくらいなら地域の人たちが汗をかけば自分たちでできる仕事だで、この範囲はやってくださいということでな」
−−反対する村民も多かったでしょう。
「地域のボスを連れてきてワイワイやられたが『もう3年すると新しい村長さんが出てくるで、その人にやってもらいなさい。でも私の時はだめですよ』と言ってやると、半月もせんうちにまた同じメンバーで来て『やる』と。俺は(1期目の)4年で改革ができにゃ何ともならない、辞めるぞと、思い切ってやった。突き放す時は突き放さないかん。村民の皆さんは、一生懸命汗かいて公民館でビールや酒飲んで『村長にやられちゃったけど、いい道ができたな』と言ってな。それが原点だ」
−−今も反対の人はいるんじゃないですか。
「そりゃおるさな」
−−そうですか。
「おる。おるけどな、そりゃ少数民族だ。絶滅危惧種に近い。俺はそう読んどる」
−−政治家は人気商売のようなところもあるので、嫌われることはしたくないと考える人が多いと思うんですが。
「俺はな、最初は嫌われるんだ。でも最初にうまいこと言っちゃうと死ぬまでうまいこと言ってかにゃいかん。そんなユートピアみたいな、うまくいく世界はない」
−−国勢調査で日本全体の人口が減りました。さすがに下条村も今後人口が減っていくのは避けられないのでは。
「人を増やすっちゅうことは簡単にいかない。下条村は住宅建設などの人口増加策を早くからやり出したんで、ライバルがおらなんだ。今は各自治体がやっとるから下条村はなかなか今までのようにはいかんけれども、全国的に対策をしているのはいいことだ。だから視察が来てもできるだけ受け入れようということでな。町村だけだが。500団体を超えとる」
−−さて、伊藤村長が引退すると、また元に戻ってしまうんじゃないかという……。
「いや、それは世の中が許さん」
−−後継者を指名する考えは。
「そんなことしたら私物化。人をかきわけてでも、俺にやらせろという意欲がなきゃ。推薦されて、それじゃあやる、なんて人はやめたほうがいい。何もできやせんもん」
−−「奇跡の村」と呼ばれているようですが。
「多分ほめてくれている言葉だと思うけど、宝くじに当たったみたいだな。私は薄紙を一枚一枚はがすようにやってきたつもりだ。眠れない日もあったし。今になってみると愚直にやったっちゅうことかな」(各界の話題の人へのインタビューを随時掲載します)
■人物略歴
いとう・きへい
1935年、下条村生まれ。村議を経て1992年に村長に初当選した。
日本経済新聞より
http://www.nikkei.com/article/DGKKZO06532600W6A820C1NNP000/
過疎と闘った前村長 伊藤喜平さんに聞く
村変えた住民の知恵と汗 行政頼み脱却し自信
- 2016/8/27付 日本経済新聞 夕刊
長野県南部、天竜川沿いの山あいにある下條村。村長を24年務めて7月24日に退任した伊藤喜平さん(81)の自宅を訪ねた。在任中は、51人いた職員を退職者の不補充によって一時34人(現在38人)に減らすとともに、村が資材費を支給し村民が自分で村道や農道、水路を整備する事業を導入。浮いた資金を子育て支援に充てて人口増を実現し「奇跡の村」とも呼ばれた。
「24年やってきて大きかったのは一にも二にも職員、村民に意識を変えてもらったこと。当初、職員は効率も成果も考えず、かかったものがコストという意識だった。普通の会社ならつぶれちゃうよ。まず役場の意識改革に着手した。頭の下げ方などを徹底指導した後、交代で民間のホームセンターの店頭に研修に出した。彼らにはカルチャーショックだったわけだ。われわれはこういう努力の上に乗っているということがわかり、それから意識が変わってきたな」
「次に村民に村の実態をよくよく話し、行政頼みは限界なので皆さんも知恵を出し汗をかいて下さいと頼んだ。100万円に満たない簡便な道路や水路は材料代を払うから自分たちで重機などで整備して下さいと。住民が議員を連れてきて要望しても突っぱねた。やってみると、できてできて。自分たちで汗をかけば次の日から生活道路なんか使えるわけだ。達成感があって満足すると、またやるぞとなる。格安にできるだけでなく、自分たちで知恵を出して村に貢献できるならやろうという意識が醸成されてきた。これはありがたいです。自ら造った物は大事にするので長持ちもする」
予算はモダンな村営若者定住促進住宅の建設などに回し、10棟124戸を建てた。県南部の中心都市の飯田市まで村から16キロと通勤圏内でもあり、若者世帯の人気を呼んだ。
「国の補助金を使わなかったのでマイペースで進められた。道普請への協力とか消防団への加入とか入居条件を厳しくした。そうすると地域とのいざこざも起きない。都会では保育所や公園を造るのも地域ともめるそうだが、ナンセンスだな。どうしてこういう社会になったのか。権利はいくらでも主張するけど、義務には知らんぷりする。こんなの直すのは大変だよ」
やれば達成感が生まれ、さらに考えられる
いち早く子どもの医療費を高校生まで無料化。補助教員を村単独で配置し学童保育も充実させるなど教育環境も整備した。
「周辺町村からはブーイングだったが、子どもが風邪をひいてもケガをしても無料というのは本当にインパクトがあった。子育て対策を評価して、電子部品メーカーの工場が進出した。昔は電気と水道があればOKだったのが、今は優秀な労働力を何人そろえられますかとくる」
「人づくりは基本。中学生には班ごとにテーマを決め、村をくまなく見て村会議場で議員になったつもりで質問させてきた。図書館はうまくやっているとか温泉は利用客がなかなか増えないとか。そうすると知らず知らずにふるさと愛が出てくる。役場側は一生懸命答弁し、正式文書を生徒会に送る。取り入れた提案もある。面白いんだ」
村長就任時は3900人だった人口が05年には4200人を超えた。合計特殊出生率も11~15年の5年平均で1.88と、15年の全国平均1.46を大きく上回る。しかし15年に人口は再び4000人を割り込んだ。
「競争が熾烈(しれつ)なんだ。同じような対策を近隣の自治体が始めた。それはそれで結構だと思う。若者向け対策をしなかったら人口は3300人を割っていただろう。若い人はほっとくと出て行きますよ。何か常にアクションを起こさないとね」
「日本創成会議が『消滅可能性都市』を提議したが、あれは脅しではなく現実。早く咀嚼(そしゃく)してどう底上げするか。マジックはない。紙を一枚一枚積み重ねていくしかないな。大都市は利便性がよく刺激もあるけれど生活費がかかる。長野県の軽井沢町では移住して東京へ新幹線通勤する人が増えているようだが、これからはそういう考えが出てくる。交通体系を整備して遠方でもハンディを負わない社会にしないと。幸い、飯田にはリニア中央新幹線がやってくる」
「下條村の子どもたちはふるさとに愛着は持っていても、どうしても1回は都会に出て行く。ふるさと回帰の気持ちもあるんだが、そうおめおめと帰れないというプライドもあるわな。そこのところを認めてあげて、帰ってきて再チャレンジできるようにすればいい」
「日本人はもっと義務感や連帯感を持たないといけない。これだけの生活を日本は営んでいて、何でも国でやれというと、どうするんだ、財政を。国の借金が1050兆円。5人家族で4000万円なんて身震いするほどの金額になっている。こんな借金をしていて刹那的な幸せを追うのはだめだろう。下條でできたことはよそでもできる。都会でも公園の管理など近隣の住民ができるんじゃないか。実際にやると達成感もあり、地域をさらに考えるようになる」
「それと、もうちょっとほのぼのとしたものが欲しい。泥臭い人間性のようなものがね」
(長野支局長 宮内禎一)
いとう・きへい 長野県下條村前村長。1935年下條村生まれ。飯田高校卒業。父の入院で進学せず家業の運輸業を継ぐ。ガソリンスタンドや自動車の販売・点検に事業を拡大した。75年に村議に初当選し、3期目は議長に就任。92年の村長選に出馬して98票の僅差で当選した。6期24年務め、引退を表明した。
資料:
平成の大合併が盛んな2004年2月に配布された書類
「下條村が自立していくために」
下條村-伊藤喜平_自立の村づくり p0simojo
下條村長いとう きへい 生年月日 昭和10年1月22日
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